海外生活者の手配

日本海事広報協会発行 ラ・メール掲載

船と海の雑誌「ラ・メール」98年1、2月号の特集記事「海を舞台に世界をつなぐ」 に載せた海外移住者の手記。高校生の頃からニューカレドニアに流れ着くまでの 経緯が書いてあります。

(以下は1998年に書いたものです)

  

1:南太平洋、仏領ニューカレドニア。

 私はこの島でダイビングボートの船長となって4年になります。とは言っても、たかだか全長12mのモーターボートの船長です。今まで文章など書いたことはないのですが、縁あって今回の記事を書かせていただくことになったので、海が好き、船が好きと騒いでいるうちに、こんなに遠くまで流れてきたいきさつでも書いてみようかと思います。

  

2:スキューバとの出合い

 私が海に関わりだしたのは高校生の頃でした。中学卒業とともに横浜に引っ越してきた私は、地元の県立高校へ入学し、原付オートバイを手に入れました。そして暇さえあれば鎌倉や三浦半島に出かけるようになり、そこには必ず海がありました。今でこそ湘南の海といえば数多くのマリンスポーツを楽しむ人達でにぎわっていますが、20年前の当時では海で遊ぶのは釣人ぐらいしかいなかった様に思います。それでも水中メガネとシュノーケルを使っての素潜りに夢中になっていった私は、次の年には4月から11月まで海パン1つで毎週のように潜るようになっていました。当時、ウエットスーツなど「007」の映画か「クストーの海底探検」に出てくるだけで、一般にはまだ知られてなっかたように思います。

 学校の授業中には3分間の息止め訓練を繰り返し、土日は海へ行く毎日の中で、私も3年生になり進路を決めなければならなくなりました。私の通っていた高校は県立でも有数の進学校でしたが、海ばかり行っていた私の成績が良いわけもなく、360人中300番台が私の定席でした。そこで、とりあえず海に関する大学なら行ってみたいと思っていた私は、当時、国立で唯一「海洋学科」を設けていた琉球大学と、全国唯一「海洋学部」を設けていた東海大学に志望を決めたのです。当然、私の成績でもなんとかなりそうな範囲で決めたのですが。

 そして夏休みに大学訪問を理由に、なかば親をだまして沖縄を訪れました。琉大を訪れたあとすぐに西表島に渡った私は、そこで初めてスキューバダイビングというものを目にしたのです。私はすぐにそのダイバーのグループとなかよくなり、とうとうスキューバ器材を貸してもらえたのでした。

「あの、僕もそれやってみたいのですけど」。
  「ああ、そこの器材使っていいよ」。
    「ありがとうございます」。 ガチャ、ガチャ、ボコ、ボコ、ボコ・・・・

 いま考えるとよく事故をおこさなかったものだと思いますが、何の説明もなく20m以上潜ったように記憶しています。

 横浜に帰った私は、一応受験勉強などしながらも心はスキューバに取りつかれていました。そして東海大海洋学部の合格通知を手にしたと同時にダイビングショップに通い、オープンウォーターダイバーとなり、真黒のウエットを着てタンクを背負った格好で、原付バイクに乗って三浦の海まで潜りに行ってました。

  

3:船との出合い

 大学生となった私は、まずはダイビングクラブに入ろうと考えていました。それは「海洋探検部」という名称だったのですが、その前年の事故のせいで廃部となっていたのでした。当面の目標を失った私は、友人の誘うままに、「海洋部」というヨット部に入りました。そして私はダイビングから離れて、瞬く間にヨットにのめり込んでいったのです。この「海洋部」の特長は、小型のディンギーだけでなくクルーザーを使った外洋レース活動を行っていたことです。私はこの外洋レースにとりつかれてしまいました。静岡県の清水港をホームポートとして、駿河湾はもとより相模湾でのレースに参加し、夏には「鳥羽パールレース」参加のため、清水から鳥羽、三崎、そしてまた清水まで、たった24フィートのクラブ艇「翻車魚(まんぼう)」でかけまわる毎日となりました。また「小笠原レース」に参加する41フィート艇を父島まで回航したのも忘れられない思い出です。大学3年のときにはクルーザー責任者となり、26フィートの「翻車魚」艇長として舵を取るようになっていました。

 とにかく私の大学4年間は常に船の上にいたように思います。もともと合宿ばかりの海洋部でヨットに乗り、たまに学校に行ったときには、大学の「東海大学丸二世」か「望星丸二世」に乗って過ごしていました。なにせ船酔いはしないうえ船上作業になれていたので、教授が研究調査に行くという話を仕入れてきては観測作業員として乗船させてもらい、その代わりに出席日数と単位をもらうというインチキ学生だったのです。そうこうするうちに海洋部では鳥羽パールレース「クラス優勝/総合3位」の成績を修めたものの、またまた学業成績どんぞこのまま進路を決めなければならなくなってしまいました。いくら船が好きだといっても航海学科にいたわけではなく商船乗りにはなれません。かといってサラリーマンにはなりたくなし、大学に残る学力もなし、八方ふさがりの状況でした。

 そんなとき、以前、大学の船で一緒になった海洋科学技術センター(以下、センター/現海洋開発機構)の技官の方から夏休みの間、データ整理のアルバイトをしないかとの申し入れがあり、このアルバイト兼卒論作成をすることになったのです。当初、夏休みだけの予定だったのですが、教授の都合で最後までセンターで卒論を書くことになり、研修生としてセンター通いが始まりました。そしてセンターには研究部門の他に調査船のオペレーション専門のセクションがあることを知ったのです。

 あとは私の性格からして進む道は一直線です。当時、センターは東大、京大の院生しか採用しない程の難関でしたが、私が狙っていたのは研究職ではなくて現場作業員です。そして大学の先生や先輩から絶対受かるはずがないと太鼓判を押されたセンターから採用通知を受け取ったのです。

 そのときの面接試験での会話です。

「君は船に強いかね?」 「はい。強いです」。

「君は酒に強いかね?」 「はい。強いです」。

 面接官は、初代「しんかい2000」司令だったことを後で知りました。

  

4:海洋科学技術センター 潜水調査船運航チーム

 私が配属されたのは希望どうり「潜水調査船しんかい2000運航チーム」でした。そして新人研修が終わるころ、支援母船「なつしま」とともにチームのメンバーが帰港してきました。司令以下、大学の大先輩に当たる潜航長他、こわおもての面々にあらためて紹介され、どきまきしている私に与えられた最初の仕事は、近くの公園での「花見の席取り」でした。そのとき思ったのは、「大学のクラブの1年坊からまたやりなおしなんだ」という一言に尽きました。そして宴席ではりきり過ぎた私は8年後に退社するまで「宴会芸主任」としての責任を負い続ける事になったのです。

 このようにしてはじまった「酒と船の日々」のなかで、私の担当は潜水船の位置を母船上から正確に測定する事でした。詳しくは他で調べて頂くとして、簡単に言うと、母船からピーンと音を出すと潜水船がポーンと音を返してくるので、その音のきた方向と距離を計測して司令や潜水船船長に知らせると言うような事です。肩書きは「航法管制士」といいました。当時のチームの標語は「気力と体力」と言うものでしたが、私の部署はどうしてもコンピューターの力を借りなければ成り立ちません。そしてハイテク嫌い(?)のチームのなかで私はコンピューター関係の達人とみなされ「宴会芸+コンピューター主任」の様な立場になっていきました。

 運航チームのメンバーと「なつしま」に乗っての全国巡業の航海は、それはそれは楽しいものでした。「しんかい2000」もまだ就航してまもなく、数多くのトラブルにも見舞われましたが、限られた船上で、かつ限られた人数で対処していくマジメなやりがいと、北は北海道から、南は沖縄まで寄る港、湊で繰り広げられる酒飲み、らんちき武勇伝、さらにそれらを航海中の酒の肴にねじ曲げ、拡大して繰り広げる大ホラ吹き大会、いまでも懐かしいかぎりです。

 そして5年が過ぎたころ、次期「しんかい6500」の建造が始められました。さすがにそのころになると潜水船も母船も全てコンピューター制御の設計となり、本来、現場職の私も設計担当の研究者の方々と共に仕事をすることとなり、センター在職中で一番忙しい時期をむかえました。航海中は「2000」のオペレーション、下船すれば「6500」の設計といった具合でした。そして、「しんかい6500」/母船「よこすか」の就航と共に「6500チーム」の辞令を頂き、それまでの航法管制士に加えて、潜航士として潜水船の操縦もすることとなりました。日本海溝の水深6500mの亀裂もこの目で見ました。北フィジー海盆で熱水を吹き上げるチムニーも見ました。ところが、6年間の毎日のルーチン作業の中で、あまりに日常的に深海底の映像を見続けたせいか、思っていたほどの感動はなくなっていたのでした。また、ちょうどその頃、センターでは運航部門の人員削減とか外部への依託といったいわゆる行政改革の波が足元を洗い始めていました。そして誰と話をしても先行きの暗い話ばかりで、役所勤めのいやなところばかりに目が行くようになっていきました。

 そのような状況のなか、「よこすか」は補給、整備のためにニューカレドニア、ヌメア港に入港しました。

 ヌメアに入港した我々は、潜水船の整備を終えた後、1週間ほどの代休処理を取ることができました。そこで私は仲間をさそって、ひさしぶりのダイビングを楽しむ計画を立てたのです。スキューバ器材は母船に搭載されていたので、現地でボートをチャーターしてでかけることにしました。このチャーターボートが私のその後を大きく変えたのでした。当日の朝、岸壁に我々を迎えに来たのは28フィートのフライブリッジ付きモータークルーザーで、スキッパーは海軍あがりの年季のいったフランス人でした。彼は岸壁を離れると私に針路をつげてヘルムを渡してくれました。美しい南の海で久しぶりに小型艇を自在に操ったとき、私が好きなのは、何千トンもある本船ではなく、こういった小型艇だったことに気が付きました。潜水船の仕事はあまりに大掛かりすぎたのです。私が操船する間、バウデッキで真鍮を磨くスキッパーをみて、私も彼のようになりたいと強く思ったのでした。この時点で、私も30歳になっていましたが、思い込んだら止らない性格は昔のままで、ニューカレドニアのチャーターボート屋の親父に向かって思いは膨らんでいき、3ヵ月後、日本に帰港してすぐに辞表を提出したのでした。

  

5:ニューカレドニア

 ニューカレにいくとは決めたものの、海外に住んだこともなければ、フランス語も知りません。とりあえず、現地で知り合ったジェットスキーのツアーを主催している日本人に連絡を取り、将来はチャーターボート屋をやりたいのですが、とりあえず現地入りするために雇ってくださいとお願いし、なんとかビザを取得して、いよいよヌメアへやってきました。当面の仕事はジェットスキーのインストラクターです。実はこのときのジェットの腕前は、立ったまま曲がるのが精一杯だったのですが、持ち前のずうずうしさと、ヨット、サーフィン、ウインド、スキーなど、それまでに私がのめりこんだ遊びで培ったセンスを総動員して、何とかお客さんにはシロウトであることはバレずに済んだようでした。その他にも会社の都合で水上スキーや乗馬(?)のインチキラクターとして日々を過ごしながらも、私の最大の課題はフランス語を覚えることでした。結果としては、数ヵ月もたつと現地に住む日本人と知り合いになるばかりでフランス語はまるで上達する気配もなくなっていたのですが。

 そのようにして知り合った日本人のなかに、もう何年も一人でダイビングサービスをやっているAさんという人がいました。当時、彼はヌメアから100キロほど南の離島で地元の会社と提携して日本人ダイバーを受け入れていたのですが、近いうちに船を買ってヌメアでサービスを初めたいと話していました。私はもともと船が専門で、ゆくゆくはボート屋を始めたいというような話をしているうちに、Aさんのボートの話が具体化してきて、結局、私は彼のボートを見ることになりました。私が勤めていた会社は、私が抜けると共に自然消滅的になくなってしまい、手続き上の問題もあったのですが、私はAさんの会社の株主となりそこで仕事をすることとなりました。

 まず始めの仕事はボートの仕様書作りです。ボート自体はオーストラリアの造船所の35フィートカタマランモーターボートに決まっていたのですが、それをダイビング専用にオーダーしなおすことになりました。社長が経験に基ずいてアイディアを出し、私が図面化するところから始まりました。最終的にはオーストラリアまで出向いていって、その場で図面を書いたりもしました。

 次には、そのオーダー艇をヌメアの海運局(JG/NKの様な役所)で認定してもらい営業艇としてのライセンスを取ることでした。この手続きには大変苦労しました。ただですら大変な手続きに、言葉の壁があり、なおかつ日本人船長で登録しようとしたのです。外国人船長の登録は、ほとんど不可能の様に思われたのですが、最終的には何とか許可が下りました。また、日本の旅行会社への営業活動なども同時にすすめるなか、いよいよボートが完成したのです。船名は日本の雑誌で公募した結果、「Le Grand Bleu」と決まりました。

 こうして、社長と船長だけのダイビングサービスがスタートしたのです。

  

6:「Le Grand Bleu」

 いよいよ、定員14名のボートを預かる事になったのですが、就航当初は初期トラブルの嵐でした。故障した場所は分かっても、部品も手にはいらなければ、専門のメカニックもいません。メカニックについては、ローカルに頼むより私が自分でやったほうがはるかに確実だということが分かり、以後、すべて私自身で整備しているのですが、部品がないことにはどうにもなりません。地元のエンジンメーカーの代理店にパーツを発注しても、手にはいるのは2ヵ月先といった状況です。これでは話にならないので最寄りの先進国、オーストラリアの代理店を探して、直接パーツを輸入することにしました。この輸入手続き1つを取っても大変な苦労がありましたが、今では発注して4日で何とか希望のパーツが手にはいるようになり、重要パーツはかなりストックすることができるようになりました。

 そして就航して3年も経ち、たいていのトラブルにも対処できるようになったころ、新たな問題が持ち上がりました。操船資格の問題です。

 操船資格については、船の登録時にいったんクリアしたのですが、ヌメアにもダイビングサービスが増えてきて、規制がいきとどかないという理由で海運局長が法解釈を変更すると通達してきたのです。フランス本国では、日本とほぼ同じに、小型船舶免許制度があり、加えて営業船舶免許の様な資格があります。ニューカレでは現地人漁師への配慮から小型船舶免許は適用除外されていますが、営業免許は適用されています。そして、いままではダイビングボートに関しては営業免許は不必要としていた解釈を変更し、営業免許所持を義務づけたのです。

 この通達にはヌメア中のダイビングサービスが打撃を受けたのですが、言うまでもなく私が最大の打撃を受けました。要は試験をうけて免許を取ればよいのですが、筆記、口頭、実技の3課目と国際VHF無線免許、船舶消防士資格を全てフランス語でこなさなければならないのです。はっきり言って私にそれほどのフランス語力はありません。このときは、もう日本に帰ろうかと思ったほどでした。とは言っても、帰ったところで仕事も住むところもありません。覚悟をきめてフランス語の大特訓を始めました。そしてまる一ヵ月、地元の国立船員学校に通いフランス語での船舶用語、機関用語などの専門用語を覚え、無線、消防の試験をクリアした後、いよいよ操船免許の試験を受けたのです。

 はっきり言って内容的にはさして難しいものではありませんでしたが、実技や口頭試験で早口の試験官の質問が聞き取れず、ほとんど山勘に近い返答を文法無視のフランス語で答えました。

 そして1週間後、なぜか合格通知を受け取ることができ、私は職を失わずにすみました

  

7:今

 この原稿を書いている今、11月にはいってニューカレドニアは夏本番となり、毎日暑い日が続いています。きょうも12マイル沖のアメデ島までダイバーを乗せてでかけてきたところです。今朝、港をでてすぐにジュゴンの子供が水面で遊んでいるのを見かけました。ヌメアの周辺にはかなりの数のジュゴンが棲息しているのですが、間近に見るチャンスはそうありません。今日はついてるな、とそれとなく水面を探していると、すぐに海亀とイルカを見つけ、最後にまたジュゴンの成体を見ることができました。凪いでいるときには十数メートル下の海底がくっきりと見えて、空を駆けているよな錯覚に襲われ、恐ろしく感じる事もあります。サイクロンでも近づいてくれば、大勢のお客さんを前にキャンセルの判断に迷う事もあります。それでも、20年近く海と付き合ってきて、そろそろ自分の判断に自信を持つことができるようになってきたように感じます。海に出るうえでこの「自信」というものが一番やっかいな代物です。なくてはだめ、もちすぎてはもっとだめ。学生時代、私にヨットを教えてくれた、その世界では指折の大先輩が一人、また一人と海から帰らぬ人となってしまいました。ベテランほど事故にあうとも言われます。それでも私は、海の素晴らしさと、そして恐ろしさとを知るために、どんな形であろうとも一生海に出ていくのだろうと思います。

  

8:本当の今

AQUAの旦那っす。

(2001年にダイビングショップの社長が「もうやめて日本に帰る!」と決断したため、グランブルーを退職し、現AQUAを女将とともに立ち上げました。)